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日々をアレコレ


2005年12月01日

CWnd::GetWindow()

CWnd::GetWindow()関数で返されるCWndのポインタは一時的なもの。何かのタイミングで破棄されてしまう可能性があり、ずっと使えるとは限らない。もし、表示されているウィンドウの情報を保持したいのであればAPI関数のGetWindow()を利用して、HWNDを直接取得すること。

神様って何?

李徴師匠による宗教の分析。言われてみればなるほど、な分析で、さすがは師匠です。ただ気になることが1つ。

でも、これくらいのことは学校で「知識として」教えるべきだと思います。

僕も知識として持っていた方が何かとよいとは思う。ただ、学校で教えるとなるとかなり面倒な事態を招くのでは?例えば、「○○○の×人」に属する親を持つ子どもが、「△△△会」に属する先生からそんな教義を受けたとしたら?そこまでいかなくても、「大ブームのヨガ、キリスト教徒にはタブー行為?(Narinari.com)」に

ヨガには「瞑想」が大切な基礎だが、その瞑想が問題なんだとか。なんでもキリスト教では心の中を空っぽにすると、いわゆる「誘惑」などの悪い念が入ってくると教えられている

とあるように、宗教に対して真摯な人ほど、考え方を変えることができない。教える人が、どういった宗教観を持っているかに左右されるようでは目的が達成できないんじゃないのかな?

本当は、トラックバックを送るべき何だろうけど、李徴師匠の側で対応していないようなので、リンクだけ。

(追記)トラックバックURLがわかったので、送った。

神様って何?その2

師匠からのツッコミに対する返答を。

教える側はあくまで中立の立場(宗教系の学校なら別ですが)であるべきです。

言いたいこともわかるけど、その「中立」というのが一番の問題。信仰の自由ということから、教員の採用にはその人の何を信仰しているか、ということは問題にはならないはず。したがって、宗教活動に熱心(もちろん、悪い意味ではない)な人が一般論としての宗教学を教えることにもなる。その時に、自分が信仰するもの以外を否定することはないにしても、自分が信仰するものとの差は少なからず出てくると思うのです。そんな状態で本当に宗教に対する免疫ができるのかが疑問。

それと書いた後に気づいたことがある。実は、宗教学って本当にさわりの部分だけなら歴史の授業でやっている気がする。師匠の書いた樹形図の内容を僕が理解できたのも、赤点ぎりぎりだった高校の頃の世界史の授業のおかげ。教育の無力さが宗教に対する免疫をなくしているような気がしてきた。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]
李徴 (2005年12月01日 12:29)

おや?トラックバック受け付けるのってどうしたらいいんだろう?<br>それと、宗教の教育は、教える側はあくまで中立の立場(宗教系の学校なら別ですが)であるべきです。「Xという宗教は、Aという歴史で生まれ、Bという教義をもち、Cという人々に信仰されています。」「Yという宗教は...」という風に主要な宗教を偏りなく公平に記述することは可能なはずです。教えるのは「宗教」ではなく「宗教学」です。

李徴 (2005年12月02日 12:16)

教師個人の思想信仰は自由でも、教育は(理想的には)中立であるべきです。もちろん実際には偏りがでてくるのは(ある程度は)やむをえないでしょう。歴史の授業でも左よりの教師は日帝のことをことさら悪く言うでしょうし、右よりの教師は中共のことをことさら悪く言うでしょう。ある程度やむをえないけど、極端な偏向教育は禁じられるべきです。<br>宗教教育については、教育基本法9-2にも「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」とありますし。

shaga (2005年12月03日 00:59)

言いたいことはよくわかるのですが、それはあくまで理想論です。デリケートな問題なだけに、全体に偏りがないことを目指す必要があると思うのです。<br><br>あと、最後に書いてますが、本当に学校で教えて納得できるのでしょうか?もし可能であれば、今流行の僕からすると違和感たっぷりな敬語は生まれていないと思うのですが。


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